- AUG
- 16
- 2018
「発達障害」について思うこと。
去年の今頃、
「発達障害の子供たちに、タップのワークショップ(体験)させてあげて?」
と言われて「い〜よ〜」とか、あった。
(レッスンだし、体験だし、気軽に引き受ける)
私は「発達障害」を全く知らずに、
「障害」と言う名前がついているのだから、
かなりの「何かしら異変を抱えた子供」が来ることを想像していた。
そして「あれ????」ってなった。
5−6名の小学生だけど、
しっかり話すし、しっかり動くし、元気ハツラツだし、
質問もハッキリするし、人の話もよく聞くし、
全く、思っていた「障害を抱えた児童」とは違っていた。
むしろ「活発な子供の選りすぐり」が5名来た!と言う感じだった。
実際に子供たちを見て、
子供たちを連れて来た、先生方に話を聞いて、
「なるほどね〜」と納得した。
まず第一に私が思った事は、
「時代がもうちょい後だったら、私も発達障害」と言われていたかもしれない?と。
正直「窓際のとっとちゃん」(黒柳徹子さん)は、発達障害だと思う。
〜なるほどね、と思った事〜
なるほど1)「障害」と言ってるけど「規格外」なだけ
「学校」と言う集団とか、「社会」と言う枠組みとか「常識」に、少しづれたら、「問題児」と言われたり、「障害」と言われたりする、とか。
※ 「障害がある」と認めてもらった方が楽だ、と言う子供もいると思うし、「障害がある」と言われて、より辛い思いをする子供もいると思うので、なんとも言えないけれど。
なるほど2)「障害」と言うと、足りないみたいだけど、むしろ「他のことに長けている。」と言う考え方もある。
「枠」にハマれないからといって、マイナスが多いように感じるけど、そんな事ないと思う。
すごく人とは違う才能があったり、
「別の感覚が研ぎ澄まされたり」している。
と言うケースが多い気がする。
私は、聖心と言う「厳格なカトリックスクール」でどうだったか?
基本的に「情緒不安定」「問題あり」と言う評価を受ける。
評価1)成績は、物凄く良いか、物凄く悪いか。
やる時は、全ての教科において、満遍なく、やらないと気が済まない。
やる時は、全教科、隅から隅までやるから、全教科が高得点。
「保健体育」とか、他の生徒が、捨てる教科まで、やるから、みんなが捨てる教科においては、1位とか。
理数系は苦手だから、同じように頑張っても、ただ「高得点」に留まり、
国語、古文、英語、倫理社会とか、歴史など、
文系の事に関しては、物凄く上位をキープ。
ただ「家庭科」だけは「不器用と嫌い」が重なって、常に、赤点。
ミシンを触ると、端から壊すので、課題を完成させた事もなく、先生も嫌いだったから、ずっと赤点。
(課題が、完成する前に、布がボロボロになって、ミシンもたくさん壊して、終わる。
そしてやる気もない。なんでスカートとか作らねぇといけないんだ、ケッ!とか思って、全く、やる気なし。)
それでも、成績が良い時は、先生たちは「真面目な優等生」として評価していた。←おかしい。ただテストの点がいいだけじゃん!
評価2)成績が悪い方に転ぶと、先生(シスター)の批判を受ける。
極端な性格で、成績が悪い方に転ぶと、途端にシスターたちは「人間として問題あり」と批判した。
「お子さんの問題」について、親がひどく何度も呼び出された。
中学や高校の勉強なんて、そこそこやれば、そこそこできる。才能に関係なく。(と、私は子供ながらに解っていた)
ただ私は、「そこそこ」ができないので、
「すごくやる」か「全然やらないか」だ。
そのテストの点数で「人間的に問題あり」とするのは、如何なものか?と子供の頃から思っていた。
評価3)また成績が良くなると、全てOKみたいな。
私は、基本的に、つまらない授業は全部、寝ていた。
眠気を我慢できない。
堂々と、机に伏せて、ゴーゴー寝ていた。
この私の「先生に失礼な態度(爆睡)」がどう評価されたか?
「金子、勉強のしすぎじゃないか? 大丈夫か?」と言われた。
テストの点数がよければ、なんでも許されるのかぃ?
と、子供ながらに思った。
親の私への評価)学校がりずむに合わなければやめて良し。
シスター達は、「人として問題あり」と言い続け、
シスター達は、成績が悪い時は「我が校の校風に合わない」と言い、
シスターたちは、成績が良い時に限り「情緒が安定した」と言い、
それは「点数」が安定しただけで、情緒が安定した訳ではない。
そして、成績が悪くなると「りずむさんは、我が校の校風に合わない」とも言ったりしたが、
私の親の評価では「私が学校に合わない」のではなく、
「学校がりずむに合わなければ、やめたければやめて良し」と言っていた。
私、個人的には「聖心女子学院は、わたくしに合っている」と思っていた。ご学友達も、好きだったし。笑。
そう言う事、なんじゃないか?って思う。
「学校」と言う枠組みとか、「先生」と言う立場とか、「学校経営者」と言う尺度とかで、子供を測ろうとすると、
集団に上手く混ざれずに「規格外」だったり、
問題を起こしそうな予感がしたりすると、
「問題児」とか「障害あり」とか査定しておく。的な?
昨日、テレビに出ていた、漫画家になったこの女性は、自分の発達障害での苦悩の日々を、漫画にしている。
「窓際のとっとちゃん」も、世の中では「社会に不適合」と言われちゃうような、独創的で、奇妙な行動をとる子供がモデルだ。(黒柳徹子さん ご自身)
私がワークショップで出会った子供たちも、音や動き、表現に関しては、ごく普通の小学生よりも、すごく敏感で、豊かだと、私は感じた。
「障害」と言うから、「何かが足りない」ように思われるけれど、どの人もみんな「何かしらに、凄く長けている」。
私は、そう感じた。
聖心女子学院で、シスター達に「情緒不安定」と言われ続けた私の性質は、ダンスや音楽の世界に入ったば「感受性が豊か」で「繊細」で「敏感」であると評価されるようになった。
所変われば「言葉(言われ様)」も変わるみたいです。
私は、自分が子供がいないから、
本当に「親の気持ち」は解らないです。
(と、思います)
(すみません、親の気持ちは解らないから、子供の気持ち的な意見しか言えない)
でも、先日、友人が、子供の学校に呼ばれて、
「おたくのお子さん、発達障害だから」って言われて、
親が「キーぃ!!!」って、なってたから、
「キィ〜って ならないで、いいんじゃないかな?」と。
子供の頃から「変わった人」と言われ続けた、自分自身の見地から、思ったけども、、。
まぁ、その友人は、
自分が医者だったり、家族も医者だったり、
プライドもやたら高かったり、
子供も1位じゃないといやだったり、
「家族の恥は、外に出せない」的な感じがあり、
その外に出せない「恥」と思ってる話を、私にこぼすのはいいのだけれども、
私の事を、愚痴をこぼす「穴」くらいにしか思ってない感じだったから、
(王様の耳はロバの耳、と叫ぶ「穴」くらいにしか思ってない感じ)
人の話を聞く感じでもなかったので、
相手がその態度だったらば、私も、
「ま、いっか? じゃあ、キーってなってなさい。知らんわ。」と思った次第です。
そう思った次第ですが、自分の過去を振り返ると、
学校が子供に「発達障害」と言うレッテルみたいなのを貼ってくるなら、
そのレッテルは親とかが、その子にあった別の環境で、外してあげないといけないんじゃないかな?
とも思った次第です。
最近は、学校が、すぐに子供を「発達障害です」とか言ってきたりする事が多いみたいだけれど、
そう言われたからって、親がいちいち「き〜」ってなっちゃいけない気がする。
「発達障害=ユニーク」くらいの受け止め方でも、いいんじゃないか。
確実に「他の人」とは違うからね「ユニーク」。
まあ、親じゃないし、先生でもない、第三者の意見です。
りずむK