- SEP
- 23
- 2018
「病める時も健やかなる時も、、、」についての考察。
不用意に鼻をぶつけた話の後で、説得力に欠けそうですが、真面目な話。
久太朗が10歳になって、思ったこと。
この10年間「病める時も、健やかなる時も」と、共に歩いて来た久太朗。
圧倒的に「病める時」が多過ぎて、久太朗には、色々と、苦労をかけたな〜と思うと涙がでる。
そして、色々な場面で、たくさん我慢して来た、久太朗だからこそ!!!
8歳を過ぎて、横浜に来てから、
若い子と遊んで、はしゃいだり、浮かれたりしちゃって、
公園で沢山の、ママとパパに甘えたりしちゃって、
その弾けた姿を観るのも、感慨深い。
(やたら、浮かれて歩いています。笑)
そしてその「病める時と健やかなる時」についてです。
今年の春までは「婚活」を頑張る趣旨の事を言っていましたが、
夏を迎える頃には「全く、頑張らないな、、」という気持ちになり、
夏の終わりには「YOUは、もう結婚とかしないね」と悟りました。
〜「もう、結婚できない」と思う経緯〜
1、「孤独と闘ってこそ人となる」的な父の教え。
うちの父は「人は孤独と闘え」「孤独な旅をしろ」とよく言っていました。
「他人と同じ」事を「良し」とせず。
「みんながやるから」という理由は、1回足りとも、通らず。
(子供は「みんながやる事」が大好き)
「我が道を行け」と。
「孤独と戦わずして、人は成らず」的な、、、。
というわけで、10代も20代も、そこそこ、孤独と戦っての一人旅でした。
2、病気の時に「寂しい」と思う流れ。
よく、風邪をひいたりすると「一人暮らしが身にしみる」的な、言います。
10代、20代の時は、そう思っていました。
それは、風邪をひいたりしなければ、通常は、元気だったからです。
熱でフラフラなのに、自分でコンビニ行ったり、自販機でCCレモンを大量に買ったりして、そんな時うっすらと、寂しいとか切ないとかツライとか思ったりしていた。
そんな時「誰か居ればいいのに」と思ったりしていた。
3、35歳で結婚して「孤独な旅は終わる」とホッとした。
29歳のガンから始まって、何かと病気が続いてる私。
35歳で結婚して「あぁ、もう、孤独な旅は終わりだ〜。やったー!!!」と、ホッとしました。
もう、世界中を一人で旅するのも嫌だし、
積極的に、言葉が通じない国に行くのも嫌だし、
なぜか、カンクーン(メキシコ)とか、フィジーとかタヒチとかの、恋人たちや家族旅行で賑わうリゾート地に、一人で行くのも、もうやらない!!!(ふぉっふぉっふぉっ、、と高笑い)。←そもそも、一人で行くのが間違ってる場所です。
⬆︎ オン(仕事)だけチャレンジすれば良いのに、オフ(仕事の合間)も謎に、孤独なチャレンジをし過ぎている例です。
ともあれ「これからは、病める時も健やかなる時も、、」だと、ホッとした訳です。
4、気づけば「病める時は、毎回別居」。
思い出してください。
若い時は、風邪引いた時とか、誰かいてくれると、身に沁みる〜とか言ってた訳です。
でも結婚してみたら「健やかなる時」は良い!事に気づく。
お互いが元気な時は、多少、割と大きめな事も、小さめな事も、「良い時」だから良い訳です。
健康で元気なら自分もできる事が多いし、健康で元気なら、相手を許す寛大さの余白も多い。
だから、結局「元気な時」は良いけど、
では「病める時」どうなのか?というと、結局、一番、病気がツライ時は2回とも、別居してた。
結局は、他人同士が、1つ屋根の下で暮らしてる訳で、最大限の思いやりとか、最大限の遠慮とか礼儀とか配慮をもってしても、足りないくらいだと思います。
でも夫婦だと「遠慮」とか「配慮」とか「礼儀」が無くなりがち。
お互い、体調や情勢が悪いと、なかなか「相手を思いやる」境地まで行かず、それどころか「解ってくれない!!!」という言い分になる。
5、「解ってくれない」という境地。
元旦那も、40代に入り、ずっと仕事ではマックスツライ状況にあり、心身共に限界まで働いていた。
そんな中で、同じ屋根の下に居るのが「お互いにツライ」と思ってしまったのは、お互いに「解ってくれない」と思ってしまったから。
「良い事を分かち合う」のは容易いと思う。
「ツライ、苦しい状況、心情、時間、空間」これを分かち合うのは、非常に努力が居る。
そして、今、どうなのか?
私が、もう病気でないなら「また、新しいパートナーを探そう!」という気持ちにもなるかもしれない。
ただ、ジストニアとの闘いは続くし、それに伴い、色々、謎の不具合が多い。
1、右足の麻痺 とか
2、左足の激痛 とか
3、注射が切れたら、顔面が激痛とか
4、目がどんどん小さくなって、悲しいとか、
5、悲しいから、人に会いたくないとか、
6、諸々含め、引きこもりガチ とか
7、まだ、これから10年は続くであろう断薬と、それに伴うパニックとか ←今はこれが一番、危ないかな?
云々カンヌン、これらを「解ってもらおう」と思う事自体が間違ってると思うのです。
両親も兄弟も友達も、仮に、ジストニアブログの全てを読んだ人であっても、なかなか理解できない状況だと思うし、
仮に理解したとしても、「その感じの人」と付き合うのはひどく難しいと思う。
もう1回、言います。
若い時は、「病める時」、、、誰かいてくれたな〜、、って思ってたけれど、
今は、具合が悪いときは「圧倒的に一人が良い」、それが一番楽だから。
今、どこがどう具合が悪くてシンドイとか、
今、音を立てると、頭が割れんばかりに痛いから、静かにして欲しいとか、
今、足が猛烈に痛いから、ゆっくり歩くから放っておいて欲しいとか、
今、薬の離脱症状が出てて、ヤバイから近寄るな、とか ←ダメでしょ?
色々、説明しなくていいし、
説明したところで「ああしてくれない」「こうしてくれない」「助けてくれない」「解ってくれない」とか、イライラしないで良い。
ツライ時は、一人で、ただじっと過ぎ去るのを静かに待つ。
そして、傍らには、いつも久太朗とマメ太が居てくれて「寂しい寂しくない?」で言ったらば、圧倒的に寂しくない。
という訳で、長くなりましたが、
「病める時も、健やかなる時も、共に」という考えで行くと、圧倒的に病める時が多くて、その「病める時」の時は「結局一人が良い」という結論で、パートナー探さぬ。
って感じになっています。
わかる?
りずむK