日々の事、犬の事、絵日記とか、たまに、ライブについて、とか、思いのままに書きたいと思います
三日坊主のつもりで始めた絵日記、いつの間にか、4年目に突入です
何卒、なにとぞ  りずむK

  • APR
  • 10
  • 2025

私にとっての「お父さん(金子詔一」とは

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写真は、私が28歳、お兄ちゃんが29歳くらいの時だと思う。

多分、これが、最後に元気な姿で、家族全員が集まった、25年前くらい。

この後、ご存じの方は、ご存じだと思うけど、お兄ちゃんとお父さんが疎遠になったから。

私は、これを書かなくてはいけない、と思う

私は、お父さんが怖かった。 

多分、世界中の誰より、何より、お父さんが怖かった。

今初めて、この事を口にして、どうしょうもなく涙が溢れる。

「厳しい」とかのレベルではなくて、父は「恐怖」でした。


 

父が亡くなって、多くの人がコメントをよせる。

「いつも笑顔で」とか

「太陽のように明るい」とか、等等、、、

え?そうなの?!ってびっくりしちゃう。

私にとっては、怖くて、怖くて「少し離れていたい」存在でした。

めちゃめちゃ近くにいると、どうしても、「似たもの親子」で言い合ってしまう。

でも、似たもの同士だから、その後、2人とも落ち込んで寝込む。

そのとっても痛い「衝突」を避けるために、「離れていよう」と決めたのが28歳の時。 

怒鳴られたくないし、傷つけたくないし、傷つきたくない。

本当に会わないとか、距離が遠くなるという訳ではなく、

ただただ、お父さんと意見をぶつけ合わないように、お父さんが何か言ったら「そうですね!」と受け入れる。

そうやって、痛みを避けて生きてきた、この20数年。

 


 

でも「遠くから見たほうが、お父さんの笑顔が見れるね!」って思った。

みんなが言ってた、素敵な村長とか、

つも笑顔の明るい村長は、遠くからの方がよく見える。

子供達だけじゃなく、大人にも、いつも「熱い全力投球」で接し、

研修を受ける青年たちにも「お前の人生はそれでいいのか?」と常に問いかけてた父。

「多分、私は、その研修を生まれた時から受けてたよ」って思う。 

ダンスを始めた私に、始めて1年目にもかかわらず、いつ何時でも、

世界を目指せ!!!」

「本場だろ???」

「小さくまとまって、それでいいのか?????」

という、ビックリマーク過ぎる問いを、ずっと投げかけた父。 

自分に響かない時は、ただただうるさいし、ただただ恐怖。

でも、急に「腑に落ちる」時があるんだよね。

そして、その腑に落ちた時、私は、NYに旅立った。

言われたからじゃなく、自分が腑に落ちたし、行きたいと思ったからNYに旅立った。

「世界を目指したい!」と思ったし、「本場はいいなぁ!」と思ったし、得るものが多かったからNYに、何年も留まった。

そうやって、腑に落ちる時期を延々待ってくれるのが、地球人村の村長、金子詔一だと思う。

20歳だろうが、25歳だろうが、30歳だろうが関係ない。

「その時」が来るまで、言い続けるし、待ち続ける。


 

いつか、お父さんの期待に応えたかったなぁ。

いつか、応えたかった。

いつか、お父さんに見せたかった。

いつか、お父さんに「これが一流になったりずむじゃ!」と言いたかった。

何も返せなかった事が、悔しい。

何一つ、かえせなかった。

「里朱生め!」と言って、厳しい父の顔が、どうしょうもなくニヤニヤして、ほころぶのを見たかった。 


 

これから、母と3兄妹で、お父さんの広げた大風呂敷をどうしていくのか?

これから4人で、話し合って、

お父さんが情熱を傾けた、野方ハウス、千福ハウス、「偶然劇場」を、それぞれ、どうして行くか?決めなくてははらない。

どれ1つとっても「誰かが継げばいい」とはならない。

お父さんの行動や、発言は、どれ1つとっても真似していいものじゃないし、真似できる事じゃない。

受け継ぐならば、「自分の発想で」「自分の言葉で」伝えて行かなければならいし、そうして創って行くものは、当たり前だけれど、「独自」であって、やればやるほど「お父さん」ではなくなるに違いない。


 

お父さんと私の最後のやりとり。 

私は、6月に母校でライブをする。

長年、学校で「音楽会」とか、「子供に魅せるライブ」に取り組んできた父。

私の母校でのライブを誰より楽しみにしていた。 

お父さんの、病床からも、沢山のメールが来た。

「この曲はどうか?」「あの曲はどうか?」

「雨の日の、雨に歌えば」?とか

「アベマリア」とか

「お父さんも、ワクワクしてるだなぁ!」というメールが沢山きた。 

私は「うーん、やりたい事があるし、テーマが多過ぎると、ブレブレになるから、その曲はやらないよ!」とか、

「私がやりたい事がブレると、誰が何のためにやるライブか?わからなくなるから」と言って、

父の提案をことごとく却下した。

でも父は、私が「この曲をやりたい!」というのをYouTubeで送ったら、それを一生懸命聞いたり、その曲の映画を見たり、その映画の鑑賞会を開いたりして、私とワクワクを共有してくれていた。

「お父さんも、私の母校ライブを楽しみにしてくれてるなぁ」と、とても嬉しかった。

絶対に、いいモノ作る気まんまんだし、見せたかったなぁ。

そして、お父さんのニヤニヤが見たかったなぁ。 

私には、とても遠くて、怖い存在だった父だけど、

「りずむやってるなぁ」と、遠くから見て、ニヤニヤしてくれてる時は、たまにあった。

でも、一流も見せれなかったし、何事も成し遂げる事ができなったし、世界を目指すもなにも、挫折して、ただただ「小さくまとまって」終わってしまった事が、父に何1つ返せなくて、残念です。

心から、自分が残念です、

今はただ、何もできない自分。

自分に、響かない時、応えらない時の、父の声はつらい。

ガンの治療で日本に帰ってきてしまった私。NY在住は6年半くらい。

父はずっと「最低10年だろう?」といい続けた。修行が足りないと言い続けた。

「世界を目指せ」「本場だろ?」「小さくまとまるな」。

ごめん、お父さん、家でくすぶっててごめんねー。でももう、何も目指せる気がしない。

それでも、お父さんの声は、いつも聞こえてるよ。

また、もしかしたら、もう一度、立ち上がるかもしれない。

お父さんの声だけは、いつも聞こえています。

応えられたくて、ごめんね。

金子 里朱生。